山行レポート

        兵庫史を歩く №17    清和源氏のふるさと その 一   
満願寺本堂  2021年7月3日(土)  多田神社随神門 

  ランク S : 距離 6.0km : 歩行時間 3時間30分 : 天気 晴れ
CL  №1205 T.K : SL №1218 K.K
参加人数 6名 (男性 2名 ・ 女性 4名)
レポート№1205 T.K : 写真&地図 №1205 T.K  : 編集 №1807 T.T   

リーダーレポート 
・兵庫史を歩く№17は清和源氏のふるさとを訪ねたが、今回の例会の目的は清和源氏にゆかりの二寺を
 訪れることであった。
・その一つ満願寺は例会では馴染みの寺であるが素通りが多く今回は時間をかけて拝観した。
 金堂には開基勝道上人が一刀三礼で完成させた開眼阿弥陀如来像や、毘沙門堂には源氏の祖源満仲が自ら刻み
 奉納したと伝わる毘沙門天立像などがある。これら以外にも千年以上前の価値ある仏像があるが、国指定の文化財  
 とはならず県指定どまりで残念である。
・多田神社では源頼光が亡くなって1000年を記念して普段は見られない宝物殿が特別公開されていた。
・宝物殿では源頼光が大江山で酒天童子退治に使ったとされる源家宝刀「鬼切丸」や「大江山鬼退治絵巻」などが   
 見ごたえがあった。
・又、一般には正月三が日しか入れない拝殿横の柵が取り除かれて、禁足地である源満仲、頼光の御神廟の前まで
 入場できた。

 
満願寺金堂をバックに 

 満願寺
 第45代聖武天皇の発願で全国に満願寺建立が進められ奈良時代に摂津国の満願寺として
創建されたと伝わる。
後に安和元年(968年)源満仲が摂津守として多田に本拠を構えて満願寺に帰依し源氏一門の
祈願所とした。
鎌倉時代の最盛期には院坊49があったとされるが兵火による焼失などの変遷があり
明治初年唯一残った子院「円覚院」を本坊として現在に至っている。
尚、現在満願寺の所在地は川西市の飛び地となっているが周囲は宝塚市である。
これは満願寺が多田院(現在の多田神社)との深い繋がりのためといわれる

     
 美女丸伝説三廟
謡曲「仲光」で有名な三基の五輪塔
  頼光四天王の一人坂田金時の墓 

  満願寺から湯山台を経て多田神社に
向かう谷あいの小径
 
多田 神社
天禄元年(970年)に源満仲が一族の氏寺として多田院を立てたのが始まりであり、当時は本殿、拝殿、法華堂、
金堂、常行堂、学問所、鐘楼などを備えた天台宗の大寺院であった。
鎌倉時代には幕府祈願所となり、足利尊氏も多田院を崇敬し足利歴代の分骨も納められて栄えたが、天正5年
(1577年)織田信長の有岡城攻撃の際多くの建物は焼失した。
その後、清和源氏の末裔として多田院を崇敬した四代将軍家綱により本殿、拝殿、隋神門が再建されため、
随所に葵の家紋がみられる。
明治時代の神仏分離令により多田神社となり仏教関連の建物は排除された。
毎年4月の第二日曜日には「源氏まつり」が行われ、8月23日から27日には御祭神の御霊を和める万燈会が
行われるがこれは源満仲の命日が旧暦8月27日であるためである。

 
 多田神社拝殿前にて

         
賽銭箱は源家の笹りんどうと
徳川家の葵の御紋 
  拝殿横の柵
本来なら正月三が日以外は閉まっている 
  本殿
満仲、頼光、頼信、頼義、義家が祭神 

         
宝物殿    満仲・頼光公御神廟   西門:高麗門 

     
源頼光の大江山鬼退治の際
酒吞童子の首を洗ったと伝わる鬼首洗池 
  笹部新太郎の墓(於・西方寺)
笹部新太郎は水上勉作「櫻守」のモデルで、
宝塚市切畑長尾山麓で亦楽山荘を
建設し桜の研究に 没頭した


 コース&タイム (地図はこちら) 
阪急川西能勢口 9:20/9:36  満願寺(拝観) 9:56/11:15 ・・・ 藤ケ丘第九公園(昼食)11:45/2:15

・・・多田神社 12:50/13:50 ・・・ 西方寺 13:55/14:00 ・・・ 能勢電多田駅 14:35  川西能勢口


(附)清和源氏とは・・・ 
源氏には祖とする天皇別に20の流派があり、清和源氏はその一つである。
第56代清和天皇の皇子、孫の王の内12名が皇族の身分を離れ臣下に下る(臣籍降下)により源の姓を与えられた。
清和源氏の中で最も栄えたのは第六皇子貞純親王の子経基の系統である。
源氏の姓を賜ったのは経基であるが満仲は藤原家の争い「安和の変」で藤原北家に協力し、その結果、摂関政治の確立とともに武門としての地位を築き、京に近い多田盆地を拠点として強力な武門団を築いた。
このことから満仲が源氏の祖とされ現在の川西市は「清和源氏発祥の地」とされている。
満仲逝去後は長男頼光が本家の家督を継ぎ「多田源氏」といわれ、三男頼信は河内に勢力を伸ばし「河内源氏」と
いわれている。
又、平安末期の「前九年・後三年の役」で功績をあげたのが頼信の孫義家であり、この系統から源頼朝、義経に
繋がり、足利尊氏や徳川家康に繋がるとされ、源氏の嫡流が滅んだにもかかわらず戦国時代に至る所で
「源氏の末裔」がでてくることになる。